「怒ってるぞ!」管理人のblog

病院勤務時に知り得た「医療現場の実態」と、日常気が付いた「社会への義憤」について書いてます。

歴史

何故、樋口季一郎さんは有名にならないのですか?

映画を見終わり感想。

この手の映画にしては、
強弱のない静かな映画でした。
でも、泣いている声もしたし、
エンドロールで誰も立たなかった映画を見たのは久しぶり。
評価は高いのでは?

Q1 何故、樋口季一郎さんは有名にならないの?
A1 それはね、日本は「五相会議」でユダヤ人を差別しないことを閣議決定。
そのことを国民に知らせたくないから、樋口季一郎さんが有名になってもらったら困るんだよ。

Q2 杉原千畝さんのした行為だって、悪い行為ではないんだよね。
A2 うん。ナチスはやり過ぎたからね。
ただ、杉原千畝さんのした行為は閣議決定した後。
仕事を遂行したといえばそれまで。

1938年(昭和13年)
3月 樋口季一郎 オトポール事件
12月 五相会議 ユダヤ人対策要綱

1940年(昭和15年)
7月 25日、杉原千畝 命のビザ発給を決断

樋口季一郎さんが有名にならず、杉原千畝さんだけ有名なのがおかしいんだよ。
それに今のユダヤ人には色々あるしね。

更に話しが膨らむの?
私、もう無理(-_-メ)また今度!
じゃあ、また今度ね。

私、解説がないと分からない。
みんなだって同じだよね。
これ、知り合う人によって人生変わっちゃうね。

下記は後日消します。
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下記は映画『杉原千畝 スギハラチウネ』のネット口コミ

『杉原千畝 スギハラチウネ』第二次大戦の最中、本国の意に反するも自らの信念と人道主義を貫いた外交官。国や宗教は肌の色は違えども、人の心は皆同じなのだ。杉原千畝の視点で淡々と物語は進むが、取り巻く状況は刻々と変化する。

『杉原千畝 スギハラチウネ』戦時中、日本政府に背きユダヤ難民にビザを発給した杉原千畝の半生の物語。強い信念と行動力。千畝の心情が深く細やかに描かれ、それを演じた唐沢寿明も良かった。千畝さんの勇気や人を思い遣る優しくて強い心に感動。
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樋口季一郎さんを知ってから:映画『杉原千畝 スギハラチウネ』を見に行く。

連日レイトショー。
映画『杉原千畝 スギハラチウネ』を見に行く。
その前に下調べ。

有名な方なので私でも「杉原千畝」は知っています。
第二次世界大戦中ユダヤ人に「命のビザ」を発行。
避難民を救った方ですよね。

では映画に行く前に映画の評判をチェック!

・当時の日本と軍部を貶める映画です。
・なぜ「樋口季一郎少将」や「犬塚惟重大佐」のことは取り上げられないのでしょうね?
「たけやんの気まぐれ日記♪」より
ttp://blogs.yahoo.co.jp/takeyang8586/13753349.html

(-_-メ)あちゃー、プロパガンダ映画だ。
まっ、いいよ。いちよ見に行こう。

そう言えば、杉原千畝、シンドラーは騒がれるのに、
騒がれない人がいるって聞いたことがあるような....。

ん....誰だったけかな?

(回想シーン).....。
「同じようにユダヤ人を助けた樋口季一郎さんは騒がれないね。」
そうそう、樋口季一郎さん。
上記ブログにも樋口季一郎さんが出てくる。

はて? 樋口季一郎さん。どなた様ですか?
では、いつものように調べて見ましょう(^-^*)/
わぁ~、一杯出てくる。

何々....。オトポール事件....。
(>_<)えーーー、
何で私、樋口季一郎さん知らないの~?


いくつか読ませて頂いたブログの中で下記ブログが読みやすかったので全文upさせて頂きます。

「かつて日本は美しかった」ブログより
ttp://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26737311.html

ーオトポール事件ー
日本のシンドラー、樋口季一郎。

1936年(昭和11年)
11月 日独防共協定
1937年(昭和12年)
12月 第1回極東ユダヤ人大会 樋口、安江が出席
1938年(昭和13年)
1月 関東軍「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定
3月 オトポール事件
11月 ドイツで反ユダヤ主義暴動(水晶の夜)
12月 五相会議 ユダヤ人対策要綱
1940年(昭和15年)
7月 25日、杉原千畝 命のビザ発給を決断
基本国策要領 「八紘一宇」が登場 26日閣議決定

昭和13年(1938年)3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せました。ソ連はユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望します。しかし、満州国は日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否します。このときのハルビン特務機関長は樋口季一郎(ひぐち きいちろう)少将です。樋口はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会の会長、アブラハム・カウフマンと親しくしていました。カウフマンは樋口に難民の救済を訴えました。樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民の受け入れを独断で決め満州鉄道総裁の松岡洋右(後の外相)に特別列車の要請をします。現場では樋口の部下である安江仙弘が奔走しました。
3月12日、ハルビン駅にユダヤの人々が到着します。そしてユダヤ難民たちは地元の商工クラブや学校へと収容され、そこで炊き出しを受けます。カウフマンの息子であるテオドル・カウフマンはこのときの光景を現場で見て、戦後、イスラエルで出版した著作の中で、樋口についてこう書き記しています。

「樋口は世界でもっとも公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考える」

文頭の年表からすると、有名な杉原千畝の命のビザの話は、このオトポール事件の2年以上も後のことです。さらに日本はドイツの反ユダヤ暴動をうけて五相会議でユダヤ人を差別しないことを閣議決定していますが、オトポール事件はそれよりも前の出来事です。このときの樋口の決断は大変難しかったと思われます。樋口の娘、智恵子さん(当時4歳)は父親が特務機関に出勤するとき、いつもは運転手さんの運転で一緒に乗って、そのまま帰ってきていましたが、この事件のとき母親から「今日は行ってはダメ」「お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない」と荷物整理していたと覚えていると述べています。

オトポールのユダヤ難民は2万人が押し寄せたという話がありますが、この数字は根拠がなく、この事件をきっかけにユダヤ難民救済のヒグチ・ルートが開通し、昭和16年ぐらいまでは有効であったといいます。難民の列車の手配を行った東亜旅行社(現・JTB)によると当初オトポールに押し寄せた難民は100~200人。その後、続々とヒグチ・ルート目指してユダヤ難民がやってきて、昭和14年に551名、昭和15年に3,574名となっており、昭和16年の数は不明ですが、大体5,000人ぐらいではないでしょうか。

樋口季一郎の独断は当然、問題になりました。ドイツからはヒトラーの腹心であるリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて抗議が行われました。外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が出て、ドイツからの抗議書は関東軍司令部へまわされます。樋口は関東軍指令植田謙吉大将に所信をしたためた文書を送ります。

「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」※

ついで樋口は関東軍司令部に出頭し、東條英機参謀長と会います。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」

東条英機は筋さえ通れば話のわかる人だったと樋口は回想しています。東條英機はドイツの抗議にたいして「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しました。

樋口季一郎と安江仙弘はユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むゴールデンブックに名を連ねています。ゴールデンブックは献金記録簿兼栄誉をたたえるための仕組みのもので、樋口、安江の献金額は不明となっており、名前は極東ユダヤ人協会が記入したようです。東條英機はユダヤ人との交流がなかったため、記載されなかったと言われています。
戦後の東京裁判ではソ連から樋口を戦犯として引き渡すよう要求がありました。しかし、これにユダヤ人たちが強硬に抗議し、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会がソ連の要求を拒否するよう米国防総省に強く訴えました。この動きが功を奏し樋口に対する戦犯引渡し要求は立ち消えになりました。もし東條英機の名がゴールデンブックに記載されていれば東京裁判はまったく様相が異なったものになっていたでしょう。

※日本は満州国に対して内面指導権を保持していた。

参考文献
「指揮官の決断」早坂隆著
「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
参考サイト
WikiPedia「基本国策要綱」「猶太人対策要綱」「水晶の夜」「杉原千畝」「日独防共協定」「河豚計画」

添付画像
樋口季一郎(PD)

オポトール事件 ユダヤ人を救った日本陸軍軍人
http://www.youtube.com/watch?v=xOLtUtHePAg
オポトール事件と書いてあるがオトポールの間違いと思われる。

「かつて日本は美しかった」ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26737311.html

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(上記2つは私が読めるように“h”有りです)

映画『杉原千畝 スギハラチウネ』公式サイト
ttp://www.sugihara-chiune.jp/sp/

香港で何が起こっているの?

香港で何が起こっているの?

香港の方々は「怒り」を通り越して、
「身の危険」を感じているのではなかろうか?

NHK news WEB
ニュース詳細
香港 中国共産党に批判的な本扱う書店関係者不明に
1月4日 4時42分

香港 中国共産党に批判的な本扱う書店関係者不明に
香港で、中国共産党に批判的な本を取り扱う書店の関係者が行方不明になり、警察が捜索を始めました。行方不明者は5人に上っていて、中国当局に拘束されている可能性が高いとして、抗議デモが行われました。
香港政府の幹部は3日、現地メディアに対し、香港にある書店の株主の男性の行方が分からなくなり、警察が捜索を始め、中国政府に対しても問い合わせをしていることを明らかにしました。
ttp://www3.nhk.or.jp/news/html/20160104/k10010360101000.html

日本でも報道されてますね。

下記youtubeを知人に紹介されました。
(拡散希望なのでupします)

禁書販売店大株主リーボー失踪事件
ttps://m.youtube.com/watch?v=qtZSULObSEA&feature=youtu.be

先日、私の知人、のんびりさんが
「まず疑ってかかるなんて、普通に生きていたらそんなこと有り得ない。」と、
私に強い口調で言った。

日本人お花畑過ぎる。
警戒心まるでなさ過ぎ。
(私の心の声)

でもそんなのんびりさんが、危機感を抱くようになったら
本当に怖い。

のんびりさんはいつも優しい方々に囲まれていてお花畑。
のんびりさんのそんな状況がいつまでも続いて欲しいと心より願う。

ペリリュー島での日本軍と島民のエピソード

2014年、8/10に札幌市厚別区でパラオ共和国の独立20周年と、日本との国交20周年を記念した「パラオ展」が開かれました。
パラオは昔から親日なのですが、残念なことに日本人でそのことを知っている方は少ないようです。
それに対してパラオの方々は、私たち日本人が少し驚く「日本からの影響」を受けまくっています。


・ペリリュー島での日本軍と島民のエピソード

太平洋戦争の際、ペリリュー島には日本軍が進駐し陣地が作られました。
日本兵と島民はすぐに仲良くなり、日本の歌を一緒に唄ったりしたそうです。
しかし、やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になりました。
島民は話し合い、代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れました。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」
それを聞くなり隊長は激高し
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
と叫び追い返しました。
島民は裏切られた想いで悔し涙を流しました。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ません。
島民は悄然と船に乗り込みました。
しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきました。
そして、一緒に歌った日本の歌を歌いながら手を振って彼らを見送ってくれました。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長の姿もありました。

ペリリュー島で、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでませんでした。
日本軍 戦死者 10,695名 捕虜 202名 アメリカ軍 戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。 一般人民 陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
出典ペリリューの戦い - Wikipedia
これは、日本軍が「ペリリュー島民を戦火に巻き込んではならない」と指令をだしていたからです。

ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。


・国旗は日の丸を模している

これは非公式の巷説ですが、月は日章旗の太陽と対をなし友好を示すもので、月が中心より若干左に寄っているのははためく時に中心に見えるように、併せて日本に対する畏敬の念の表れであるとしているそうです。

パラオの人々は、日本軍は私たちを命に代えて守ってくれたという感謝の気持ち、そして、強力な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さに敬意を抱いています。

ーーーーー
下記ソースです
ttp://matome.naver.jp/m/odai/2140776979681509501
ttp://curazy.com/archives/25829


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